陳仙姑の物語
陳仙姑(本名は陳端和)は、水貝村(現在公明上村)出身である。
『公明鎮志』によると、清・咸豊10年(1860年)、陳端和は宝安公明水貝郷の陳氏一族の家に生まれた。
幼い頃から陳端和は聡明さと勤勉さを兼ね備え、分からないことがあると常に徹底的に探求する努力をした。当時、大沘河一帯には医者が少なく、薬も不足していたため、村人たちは病気の際に医者に診てもらえる場所が限られていた。陳端和は村人の病気を治す方法を見つけるために苦労をいとわず、東莞、増城、新安などの都市を訪れ、長年の経験を持つ医師から多くの処方箋を収集し、整理した。その中には男性科、婦人科、小児科に関連する処方箋それぞれ100例、そして外科32例、眼科53例が含まれていた。これにより、村人たちは下痢・腹痛、風邪・発熱などの流行病に罹った場合でも治療することができた。今日まで残る300以上の処方箋には医学的参考価値があり、医学界でも高く評価されている。
当時の水貝村北部には大沘河(現在の茅洲河)があった。伝説によれば、春夏の季節になると波風を起こし、川を荒れ狂わせ氾濫させる二河神という川の神様が存在していた。
陳端和は大沘河の二河神に対する懲罰を与えるため、天に昇って仙になった後、天官にその神の悪行によって庶民にもたらされた数えきれない災禍を訴え、二河神への懲罰を求めた。そこで、天官は二河神を地獄に落とし、陳端和を大沘河の神として封じ、仙班に加わった。このようにして、陳端和は陳仙姑と呼ばれるようになった。陳仙姑が大沘河を整備した後、水貝村一帯は穏やかな気候となり、地元の人々は楽しく働きながら安らかに暮らすことができるようになった。
陳仙姑廟
同治年間、村人たちは陳仙姑の物語を伝承する場所として、自発的に寄付し、陳仙姑廟を建てた。
民国時代には、この物語は広く知られ、東莞、増城、新安などの異なる姓の人々にも広まっており、一時は話題の中心となった。
2004年に陳仙姑廟が竣工した後、陳仙姑の物語は再び広く伝えられることになった。
陳仙姑廟は清朝後期に建てられ、上村コミュニティの元山に位置し、北東を向いており、130年以上の歴史がある。1970年代に破壊されたが、2004年に再建された。2008年には、「陳仙姑の物語」が深セン市の第1弾となる市指定の無形文化遺産プロジェクトに登録された。この物語は民話としての価値を持ち、すでに広東オペラの脚本に編成され、各地で公演されるほどの人気を博している。陳仙姑が他者や貧しい人々、弱者を助ける貢献の精神を代々継承しており、それを発揚するために、陳仙姑が天に昇り仙になった日(旧暦正月23日)を「仙姑誕生日」と定め、毎年「仙姑誕生日」祭りを開催している。
新しく建てられた陳仙姑廟は敷地面積2000平方メートルで、元の様式で再現された。その建築技術は精巧かつ美しく、非常に壮大である。2006年9月4日のオープンを迎え、陳仙姑の祭祀イベントが再び開催されるようになった。
広東オペラ「陳仙姑」
公明弁事処は、2009年に専門家らを集め、地元の村人を取材した。その結果、陳仙姑に関する物語を深く掘り下げ、10万字以上の物語集『陳仙姑の物語』と歌「天地の間に生きる」を執筆した。さらに、同物語集を広東オペラ「陳仙姑」として改編した。この広東オペラは、2007年に深セン市の第1弾となる市指定の無形文化遺産代表作リストに登録された。
編集・翻訳:GDToday